遠距離M女ですが、何か?
井原りり



 最終パンチ


彼女は「犬」である〜9〜


とにかく何か案を出さねば……。


「好きにしなさい、というのは逃げでしょうか?」
「逃げだな」


うーわ。そうきたか。

いはらはわたしにどんな返事を書かせたいんだろう?
いはらの意向に沿った返事をなんとしても書きたいのに、書けないもどかしさ。

それって質問してもいいんだろうか?

そんなこともわからないのか、って言われるのが怖い。


「K」に対して「そういうなりふり構わぬ欲情ははしたない」と、たしなめてやるべきなのか?

思いっきり煽って地獄へでも落としてやればいいのか?

この際、相手がいはらだという前提で返信してはならないことだけは、なんとなくわかってきたが、それにしても、何にも浮かばない。


わからない。

欲望にまかせて好き勝手にしろ、というのが「逃げ」だというなら、たしなめる方向が正しいのか?

こんなふうに、文面を考える前の段階でつまづいてしまうなんて情けないし、初歩的な質問をして呆れさせたくはない。


いはらがわたしにどんな返事を書かせようとしているのか、彼の意図が読めない。

なんでだ?
いつもなら、とっくに読みとれてるぞ。


人々が帰り支度を急ぐ、宵の口のフードコートで子どもにジャンクフードを食べさせながら途方に暮れるわたし。


追い打ちをかけるように、いはらは最後のパンチを繰り出して、わたしをノックアウトした。


「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」


いはらは、りりだけのいはらじゃなかったんだ!

ってことは「K」にもそのチャンスがあるの?

いはらもまた「K」との行為を望んでいるの?

だとしたら、わたしは奴隷として主人の意を汲まねばならない。


振り出しに戻る。

いつまでたってもあがれない。






2002年10月04日(金)



 M女のねじれた幸福


彼女は「犬」である〜10〜



「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」


よく読む。

ノックダウンしたアタマで何度も反芻してみる。


りりだけのいはらだと思っているかぎりは幸せにはなれない、というのだな。

いはらを独占しようとしないほうが幸せになれる、というわけか。


どういう思考回路に持ち込めば、ストレートに幸せになれる方法が見つかるだろうか。


ノーマルな女は、相手の男を独占できることと幸福とが直結している。

わたしらM女は必ずしもそうではなく、ひとひねりもふたひねりも屈折した思考回路を有する。


まずS男氏が何を以って幸福とするかが最優先される。

S男氏の欲望や満足度が充たされることが、M女の幸福である。

直接的に自分のカラダを使ってS男氏の欲望を充足しようとするのは、「縛ってなんぼ」のご近所SMのみなさまがただ。


うらやましいような気もするが、現実性がない。


遠く離れた場所で暮らすわたしたちは、どうしても「頭脳派」にならざるを得ない。



* * * * *



今更ではあるが、自分の家庭について述べる。

めんどくさがりの夫は縄も鞭も使用しないが、わたしに君臨している。


夫は貪欲で、欲しいものもやりたいことも多い。
そのかわり、権力や名誉には見向きもしない。
世間体も気にしない。


仕事、「飲む・打つ・買う」、浪費癖、若くてキレイなおネェちゃん、仕立てのよい洋服、趣味のよい靴やべルト……、誰もが乗りたがるクルマ。

それらはわたしにとって何の苦痛も与えない。
勝手におやりなさいな。

無関心なのではない。
出来る限り夫の言動には注意を払い、彼の意向に沿う努力を惜しまないし、いつでも彼の役に立てる妻でいたい。

それは、そう言われたから、そう行動するのでなく、わたしが望んでしていることだ。

話し合うまでもない。
命令されずともよい。

夫のやりたいことが実現している限り、わたしのやりたいことも必ず実現するからだ。


関心を寄せつつ、不干渉を通す。

世界史でいうところの「モンロー主義」だ。



* * *



いはらの云はんとするところはきっとこれとはいろんな意味で違うのだろう。

が、しかし「わたしの幸福や満足感を、わたしの嫉妬心はさまたげてしまう」という答えなら93点くらいは取れそうだな。



アタマでは、わかるんですけどね……。


感情は処理しきれないまま、もつれにもつれる。





2002年10月05日(土)



 叱られて……

彼女は「犬」である〜11〜


「K」からメールが来てからほぼ36時間経過。
一向に文面が決まらない。

家族と県内一泊旅行がすみ、また翌日は上の子どもの総合学習の取材に付き合って京都まで行くことになっていた。


あわただしい夏休み。


ついにしびれを切らしたいはらは、自分から電話をかけてよこした。

いつもなら、メールで「電話」というのがまず来て、わたしからかけるのに、だ。


「で、返事はしたの?」
「まだです」

「なぜ?」
「なんて書いたらいいかわからないんです」

「まだそんなことを言ってる。どうして?」
「だって、ほんとに何をどう書いたらいいかわからないんです」

「じゃあ、なぜ聞かなかった」
「え? そんなこと聞いて、また叱られるのがこわい」

「へ〜え、叱られるのが怖いと黙っちゃうの? 都合の悪いことはなかったことにするわけ? わからないことを聞くのは当然でしょう。そこで黙っててどうする」


まあ、これ以上具体的なせりふは省略するが、いはら本人が「ひさびさに怒ったな。初期のころ以来かもしれん」というくらいこっぴどく叱られてしまう。


そのあと気を取り直して、返信文の編集会議。


今回の件について判明したのは、たとえいはらあてのメールであっても、こういう基本的な「躾」にかかわる問題は、直接の飼い主であるわたしが返事をしてしかるべきだ、といはらが考えているということ。

いはらが返事を書くのは簡単だが、それではM女二人のためにはならない。

なんのためにこんなややこしい上下関係を構築しているのか、ということ。


わたし一人が、つまらない(かどうかは、ここではひとまず置く)嫉妬をして目標を見誤れば、そこから先、わたしの幸せは生まれないということ。


そう、だから
「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」
ということになるのだ。


いはらとわたしの関係に「K」が介在したとして、それはたぶん、わたしの幸福を阻みはしない。


むしろ「K」を通していはらに享楽を提供できれば、かならず、何かもっと別の愉悦が還元されるはずだ。


いつだったか、まだ「K」を飼いはじめて間もない頃、いはらからの刺激的な課題にどきどきしながら「りりさんに対して心苦しい……云々」というメールが「K」から来た。

テキトーに返信した覚えがあるが、「いはらが楽しければそれで、わたしはいいじゃないか」と思いもし、いはらにもそれは伝えた。


屈折はしているが、ベクトルは常に一定であるはず。

なぜに、それを忘れる?


やはり、感情というのが、あるからな>人間。



編集会議終了直前。
「K」に送信後、いはらに転送される文面であるにもかかわらず、送信前の検閲を申し出て快諾された時は、正直うれしかった。


今、思うに「リアルなプレイがしたい」ならわたしらに判断をまかせず、即実行に移せばいい話。
近所に住んでるわけじゃないから黙っていれば、ばれることもまずない。

判断をまかせる、といいながら、やはりこの場合「否定され、たしなめられ、叱られる」ことを書いた本人は望んでいたのだ。



もっと早く気付けってばよ>自分





2002年10月06日(日)



 あえて弱点を突く



彼女は「犬」である〜12〜


ぐるぐるぐるぐる堂々巡りの果てに、幸福な編集会議まで開いてもらって、あたしが書き上げたメールを要約すると……。


>リアルなプレイを渇望するのはわかるが、そんなに焦らずともよいのではないか。

刺激的な性行為をするために便宜上M女になったのではなく、先天的にM女であり、生涯その看板をおろさない以上、プレイの有無は問題ではない……云々。


いはらの検閲後、i-mode向けに250字以内に分割したりなんだかんだやっているうちに、送信したつもりになっていたが、これは「つもり」のままだった。


翌日、京都駅巨大階段の途中にあるカフェで在来線の待ち合わせ時間中、Zaurusでメールチェック。
送信簿をよくよく見たらば……が〜ん!
「未送信」のまんまじゃん。

あっちゃー。


昨日の昼でさえ「いつまで待たせるつもりだ」と怒ったいはらだ。

もし、いはらが「K」にめるして、わたしからまだ何の音信もないと聞けば、また叱られてしまう。


叱られるのがこわいからって、報告しないで黙っているほど、わたしはバカではない。
かねがね、りり@粗忽もの と認識されているのだから、まったく勘弁してくれよ、ではある。

まず、大急ぎで「K」に送信したあと、いはらにもお詫びめるを送る。


わたしが一人でぐるぐるし、いはらがいらいらとそれを我慢した一日。「K」は「K」で、わたしらから何の反応もないことに、はらはらして過ごしたらしい。
それは「K」の不手際ではないのだが、丁寧な言葉であっさり謝罪されると、逆に「むっ」としてしまう。


それはさておき、わたしのメールに「K」がどう反応したか、よく覚えていない。

一週間後に「K」がわたしに会いに来てくれることになっていたので、そっちの方に関心が移ってしまっていたからだろう。


「K」が来るならば、それなりの準備がいる。


いはらに「K」とプレイしていいか、と聞くと「向こうはそのつもりでくるんじゃないのか? きちんといろいろやってあげるべきでしょう」という楽しそうな返事。


準備も含めてこの一週間は、初めて経験することも多く、かなり淫靡でぞくぞくした。


まず、こんな課題が出た。

「「K」には今、ビー玉を尻に入れて生活させてるから、りりも同じことをしてみて」

ぎょっ。

うぬぬ。

わたしの弱点はアナだ。
それを尻ながら(知りながら)これか!

息がつまるほど縛られても、一本鞭でびしっと打たれても、痛さより気持ち良さを感じるわたしだが、あそこはだめだ。


ざざざーっ。


ちびまる子ちゃんの登場人物たちのように、あたしの額にもタテ線が入る音が聞こえた。





2002年10月07日(月)



 偽姉妹の儀式


彼女は「犬」である〜13〜


東京の子どもらは「ビー玉」と呼ぶのだろうが、わたしらの子ども時代は男子も女子もみんな「かっちん玉」と呼んでいた。

地面に指でくぼみを掘り、陣地を決めて玉を取り合う、男子だけの遊び。

ついにルールも知らないまま、あたしはオトナになった。
今では「かっちん」をやって遊んでいる少年なんぞは絶滅種だ。


100円ショップで買ったガラス玉は虹色にコーティングされているのか、単純なラムネ瓶の色なんかじゃなく、とってもキレイ。

いはらに言われて最初の日は2個。翌日は3個。
このガラス玉をゴムで包んでアナに埋め込み、当日の予行演習をした。

なんとか数時間、入れたままで生活できることがわかった。

ただ、入れる時、いわゆる数珠つなぎ状態にはならず、カラダの中で3つのガラス玉が3角に接しあっているらしい。

となると、問題は出す時だ。

ひとつづつ、ひねるか結ぶかしてなんとか縦列に並んでもらわねばならない。


当日、体内に小さくってキレイな銃弾を仕込んだまま、パンツをはき、電車に乗って「K」に会いにいった。

あたしのカラダの中のことはさとられてはならない。

普通の顔してお話できるかな?
もぞもぞみっともないマネしないように……。


ふう。


スタバでコーヒーを買って、ベンチでお話してから、個室へ……。


縛りは……あはは、まだまだヘタですね>あたし。


烙印には憧れがある、と聞いていたので、線香を用意してきた。

4、5本並べて火をつけ、スタンプを押すように文字を書いていく。



一画め、横

二画め、斜め

三画めは逆の斜め

四画め、横棒の右上にちょん。



「犬」だ。



ふとももの内側にうっすらと小さく桃色で「犬」の文字の跡がついた。


文字の上から消毒液をたらす。



最後にぐったりと倒れている彼女のカラダを横向きにし、あたしのカラダの中からガラスの弾丸を出す。


そうしてそれを丁寧に消毒したあと、新しいゴムに包みなおして、今度は「K」のアナに埋め込む。


ひとーつ。

ふたーつ。

いかん、最初のが逆流してきた。
ぐぐっと押し込み、あらためてふたーつ。

最後、みーっつ。


ふう。

完了。

今度は仰向けにして、女にしかないアナの方にも小さなバイブを入れてやる。

びくんびくんとカラダが震えるから、怖いか? と聞くと首を振る。


「気持ちイイ?」
「はい」
「それはよかった」


時折、いはらに電話をして実況中継。

携帯を「K」の肩とあごの間にあてがって、いはらの声を聞かせてやる。

かすれる声であえぎあえぎ返事をしている。


本当に気持ちよさそう……。


あたしなんかが相手でよかったのかしらん? と思う。

わたしの指のさきに、オトコであるいはらがいるのだけど、あたしだったら相手がオンナだったらしらけてしまうかも?


とにかくビー玉の埋め換えもしたし、烙印も押した。



長兄の仕組んだ、偽姉妹の儀式はこれで終了。







2002年10月08日(火)



 声でイク

電話のおかげで逢えなくても、声を聞くことはできる。


声は不思議。

魅力ある声の持ち主は、容姿以上の美徳を有する、と思う。


ムスメの要望でJazzのスタンダードの入ったアルバムを探していた。
貧相なCD屋で、売れ筋しかなかった。

見つけたのはケイコ・リーの『Voices』。


ケイコ・リーはまだ駆け出しのころ、うちの近所のJazz屋に来て歌ったのを聴いたことがある。

ふうん……って感じだが、美人なだけの阿川泰子より歌唱力はあるよな。綾戸智絵みたいに騒がしくないよな、っていう薄い印象だった。


スタンダードだから聞く側にはもう、それぞれの歌に固定したイメージがある。

それをいちいち裏切ってくれるところが気持ちよかった。


「Fly me to the Moon」はミョーに重い。
まさか、これがあの……”ふらーぃみーとぅざむー?”って感じ。

「What a wonderful world」にいたっては、なんてったってサッチモのそれにまさるものはない、と思っている脳天にどパンチ!!


サッチモも泣けるが、ケイコさん、あなたにも泣かされました。

女の深い声もいい。

深い声の男はもっといい。



以下、あたしの勝手な訳、ね。



* * * * * *



葉っぱは緑  バラの花は紅い

空は青いし 雲ってな白い

虹ってなんてキレイな色なんだ

みんな手を振っていっちまう


赤んぼが泣いてる

やつらもそのうちでかくなって

オレも知らないようなことたくさん覚えてくんだな


「はじめまして」って握手する

愛してるぜ みんな


あああ 生きてるってな いいな



* * * * * *



なんか文体はその昔かぶれた黒人の詩人ラングストン・ヒューズそのまんまやんけ、ですが。


映画『12 モンキーズ』が好きなんだけど、過去と近未来とを行き来するブルース・ウィリスがカーラジオから流れるサッチモのこれを耳にして「ああ、やっぱり20世紀の音楽はいいぜ」って云う。

この台詞があるから、この映画が好き。



2002年10月10日(木)



 「十月の帝国」


「十月はわたしの帝国だ」

と田村隆一は云う。


わたしの帝国は二つある。
A面とB面の帝国を支配する二人の男。


A面は空間に接し、B面は時間に接する。

A面は世間とも世界とも接し、B面は精神と宇宙に接する。


二人の皇帝は、あたしの帝国では独裁者か?

いや、彼らは君臨すれども統治せず。

主権はたった一人の国民であるあたしにある。


いやあ、なんという民主主義。


彼らは、あたしの進むべき方角を指差し舵を取る。

船に帆を張り、エンジンをかけ、水兵たちに指示を与えるのは、あたしの役目だ。



田村隆一は「詩は十月の午後」ともいう。

キンモクセイが匂いを振りまく十月の午後。

街路樹のけやきもそろそろ色を変え始める。

いはらの街のけやきはもうすっかり色づいてしまっているのだろう。

もうじき冬が来る。

まだすぐには来ないけど、そのうち、確実に、来る。










2002年10月11日(金)
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